沸騰空穂葛日記

マンガ・アニメ、映画、舞台などの感想を中心に(予定)。フェミニズム、教育・育児ネタなども?

法王ヨハネ・パウロ2世逝去:日本人の宗教観

その報を聞いて、最初に私が思ったのは
「私の友達の信者は、教会に行っただろうか」ということと
「シスターたちは泣くんだろうな〜
 ていうよりシスターたち、全員まだ生きてる?」でした。
そういえば、卒業後も友人を通して何かとお付き合いのあったシスターが
昨年亡くなられたんだったよ。


法王ヨハネ・パウロ2世と、
私を気にかけてくださったシスターのご冥福を、心よりお祈りいたします。


……って、法王と一緒くたにご冥福をお祈りしたら、
シスター本人に怒られそうだけれども。いや、いいのか?どうなんだ?


そんなわけで、
小学校の時は祖母の友人がキリスト教信者(プロテスタント)だったし、
中高は、学校がカトリック系だったので、信者な友人もいるし、
信者の先生や、神父さまや、シスターとも、接する機会はあったし、
個人的にもお話することがあったので、わりと
宗教は身近かつ考える機会の多い問題でした。


あ、仏教の方も、実家には時々、近所のお寺から
修行中のお坊さん(雲水っていうの?)が托鉢に来ていたし、
(玄関先で唱えていたのは四弘誓願文というらしい)
小さい頃は、よくそのお寺のお墓で遊んでお坊さんに怒られてたし(笑)、
まあ、身近だったかな?


でも。基本的に日本人って自分の宗教観に無自覚だなぁと思います。
クリスマスやって、初詣行って、お墓参りして…それでも、
自分は無宗教or無神論って言っちゃう。
その認識、間違ってるから!
  お賽銭投げて手を合わせてたじゃん!
  数珠持ってお焼香してたじゃん!
  幽霊とか祟りとか呪いとか、うっかり真に受けてるじゃん!
  ご飯食べる前には「いただきます」って手を合わせるでしょ?!
  (アレも、合掌と呼ぶのは仏教的だから止めた小学校があるそうだ)
そんな具合に、日常的に宗教的な行事に接していても、
自覚することが無い&考えることが無い。
だから「無宗教」「無神論者」っていう自覚になるんですかね〜。


しかも、振り返ってみたら、東京に出てきてから、
お坊さんやシスターの姿って、あんまり見ないような。
そもそもが、自分から能動的に関わろうとしない限り、
(明確な)信仰を持つ人に接する機会が少ないんだろうなぁ。


そういう機会を作ってくれたという意味では、
キリスト教系の学校に通って良かったかもしれない。
でも、私のキリスト教嫌いを育ててくれたのも、その中高時代なんだよね。
(善悪でなく個人的なスキキライの感情なので文句は言いっこなしで、どうかひとつ)
理由は、シスターに信仰を強制&善意の押し売りをされたから…(苦笑)。
あの頃は、私も若かったし、目立つ問題児だったからね〜。はっはっは。
別に、信者の友人・知人や神父さまとは、普通に付き合っているので、
クリスチャンが嫌いって訳じゃないですよ、念のため。
でも、同性愛(者)の扱いや、中絶・避妊についての考え方を思うと、
やっぱりカトリックの教えは私とは相容れないな〜と感じます。


そうそう、その反動で仏教に関心を持ったので、
そういった本を読む機会にもなりました。
般若心経を覚えたこともあったなぁ。
今でも、写経の会みたいな仏教系イベント事は、
一遍どんなものか参加してみたいと思ってるので、目に留めてたりはしてますが。
でも、熱心な仏教徒になる予定もないんだよね。
坊さんの剃髪した姿は、禁欲的でセクシーだと思ってますが(爆)。


まあ、そういった宗教やカミサマに対する無自覚さや、態度のあいまいさが、
つまりは日本的宗教観なのかも。
という訳で、私は「積極的&意識的な日本的宗教観支持派」です。


って思ってたら、こんな記事が。
東京新聞:筆洗2005.04.04
この記事の中で「書評が云々」と言ってるのは、たぶんコレのこと。
新潮社:波 2005年3月号より
(上の「筆洗」での要約は間違っていると思うんですが…
この欄を書いてるのって、古株の社員じゃないの?あ〜あ)


河合隼雄さんの日本人の宗教性についての見方は、
ほぼ私と同じなんだけど。なんだけどね。
……なんで西洋人に合わせて、わざわざカミサマを作らなきゃならんのじゃ?
「日本社会からカミサマがいなくなった」というけど、何が問題なの?と思いましたですよ。
いいじゃん、無関心で無自覚であいまいな態度のままで。
別に、西洋人との異文化交流で初めて気付くんでもいいじゃない。
先祖や天皇陛下を敬う気持ちは薄れてるかもしれないけど、
人形に魂が宿る…なんて、すっごいオタクSF的かつ日本的宗教観じゃん!(笑)
今も、そういう宗教性って、ちゃっかり息づいてると思うんですが。
古い時代の方にしたら「足りねぇよ」って思うんでしょうなぁ。


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<<追記>>
おとなり日記」になっていた「あんとに庵◆備忘録」さんの日記から。

大衆化された宗教というのはこのように判りやすいものを繰り返し行ってきたわけです。日本の歳時も日本古来の宗教伝統に裏打ちされた周期的なもので、これが来たらもう春だ〜とかそろそろ夏だ。とか季節感と共に記憶出来るシステムがあるのですね。これは自然宗教である神道の精神性などがかなり影響しているでしょう。そういうものはやはり大切にしていった方がいいと思うのです。

あんとに庵さんはカトリックの信者でらっしゃるみたいなんですが、
そういう方からの、こういう指摘って、
逆に?だからこそ?説得力があるなぁと思いました。


あー、そういえば。カトリックは儀式・様式を重んじるんだったかな。
偶像崇拝はダメという聖書の文言を厳密に守る宗派と違って。
エス様もお釈迦様も、凡夫にわかりやすいようにたとえ話をするし、
私は儀式・様式って、それと同じだと思ってるんですが。どうなんだろう。
でも、意外と儀式的なものって心理に働きかける力が強いから、
カルトな宗教がやっちゃったりするとマズイだろうな〜。


と、徒然なるままに思ったことを書き散らしてみる今日この頃。


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<<さらに追記>>
この日記に、「記識の外」id:using_pleasureさんがトラバしてくださいました。

boilednepenthesさんも指摘されていることだけど、宗教的であるかどうかという区別は宗教を「信じている」かどうかにはあんまり関係ない。むしろそれは宗教的実践(初詣を行うとか、焼香するとか、死者に頭を下げるとか、お墓参りするとか)といった行いにこそ関わる。

私が漠然と感じていたことを、とても論理的な言葉で言い換えてくださって、
ああ!そっか!そうそう、そうなんですよ!と思いました。


で、私自身が
>先祖や天皇陛下を敬う気持ちは薄れてるかもしれないけど
と、若年層の傾向として感じることを書いてはみたけれども。
確かに、たった16年前の日本は、正しく国を挙げて天皇陛下崩御を悼んだんでした。
そして、私がつらつらと流し読みしたローマ法王逝去について書いたブログの多くが、
カトリックの信者が涙を流す様を見て、天皇陛下崩御を連想していました。
もしかしたら、そういう連想が成り立つ時点で、
日本人の意識に天皇の存在は宗教的存在として刷り込まれている
…のかもしれないなぁと思いました。
あの「筆洗」の執筆者や河合文化庁長官は、
それ位じゃ足りないって言うんでしょうけどもね。
彼らは、天皇陛下を現人神だと「信じていた」時代に戻りたいんだろうが。
でも、それって逆に一神教的な信仰だと、私には思える。
(現代の)日本的宗教観における神道って、
カミサマを「信じていない」多くの人が
「賽銭を投げて手を合わせて神頼み」はする存在な訳で。
むしろ、現人神だとは「信じられていない」けれども、
「国民から最上位の敬意を払われる」いまの天皇のあり方こそ、
日本における宗教的存在として純粋なのかも。


そういえば。私が小学生の頃に国会議事堂を調べていて、
「年に一〜二度しか使わない天皇陛下の控えの間が
 何でこんなに豪華で広いんだろう?」
と、純粋な疑問を担任に提出する日記帳に書いたらば。
先生は「なぜそんな事を疑問に思うのか」みたいな
怖〜いコメントをつけて、日記帳を返してくださいました。
家族(祖父か祖母)にも嫌な顔されたかな。……あはははは。
メディアもだけど、そうして身近なところからも、
天皇崇拝の気分っていうのは刷り込まれていくんだろうな〜。良かれ悪しかれ