沸騰空穂葛日記

マンガ・アニメ、映画、舞台などの感想を中心に(予定)。フェミニズム、教育・育児ネタなども?

防腐……じゃなくて、亡父の話。

三月初旬に、母と我が背*1と三人で、亡父の墓前へ結婚の報告に行ってきました。
ということで、以前ゼロアカ道場への参加をきっかけに、これからは「自己開示」をしていこうと思う』って書きましたので、
説明の面倒な自分の生い立ちを、ちょこちょこと書いていこうと思います。
さあ、これで今後はこのブログを見せるだけで話が済むぞ〜!(笑)
いや、ホント面倒なんですよ。ざっと話すだけで小一時間かかるし。
今回はともかく、この後は家系図を書かないとわかりづらくなっていくし。
というわけで、長いのでご覚悟を。



父は、「フッカー化粧品」という会社で、若くして専務をしていたそうです。
私の祖父が会長、父の上の兄が社長ということで、族企業って言うんでしょうか、
ともかく訪問販売ではそこそこの規模だったらしいです(と母が話していました)。
最近、東京の下町をうろうろしていたら、
廃屋の店先に「カネボウ化粧品」といっしょに「フッカー化粧品」の看板も出ていて、
「ああホントに全国展開していたんだなぁ」と思いました
(父と私たちは大阪の高槻や茨木に住んでいて、工場や本社もそっちにあったようです)。
我が背にこの話をした時に
”会長のお孫さん”なんてマンガのキャラでしか見たことなかったです、初めて実物に会いましたよ」
って言われました(笑)。
私も、今はこんな(^_^;)ですが、
生まれた時は「お姫様がお生まれになりました」と言われ、
お手伝いさん(リアルメイドさんだよ!!)には「お嬢さま」と呼ばれていたらしいですよ。
写真で見ると、確かにその頃は
お姫さまと呼ばれるだけのことはあって可愛らしかったです、自分で言うのもなんだけど。
惜しい人をなくした感じですね、はい(笑)。
もし、そのままそうやって育ってたら、
宝塚に入って*2、退団して
大学に入りなおして経営でも勉強して、
今頃は化粧品会社の広告塔&広報部長とかやってたかもしれないですね、
オソロシイ(笑)。
や、化粧ってまさしく「化ける粧(よそおい)」だからね、
素がコレでもどうとでもなりますよ、
と結婚式でメイクしてもらって思いました。
しかし、こんな仮定の話でさえ自分が勉強してない(大学にいってない)っていう道は想像できないあたり、
私は本当に勉強・勉学が好きなんだなぁと思います。
父は中国に関心があって*3、漢文で母にラブレターを書いたこともあるらしいので、
私の勉強好きは父の血かもしれませんね。
父はフッカー化粧品の支店?営業所?をまわっているときに、
叔母(私にとって祖母の妹にあたる人・母の、母親の妹。)つながりで
高校生だった母と初めて会ったそうです。
ウチの家族は父のことを
名前の一文字を取って「ブン(文)さん」と呼んでいたということで、
私のペンネーム文尾実洋の「文」という字は、父の名前からとっています*4



さて、そんなこんなで私の人生は順調な滑り出しを見せたかのようでしたが、
祖父が築いたフッカー化粧品が、伯父である社長の経営ミスから
倒産してしまったから、さぁ大変。
母は「おじいちゃんもお父さんも*5
某元総理*6をずいぶん面倒みたのに、
そういう大変な時には何もしてくれなかった」と言って、
未だに自民党とその元総理&つながりのあった政治家*7を恨んでおりますが、
ま、しょうがない。
私と母にとって、そんなことよりも悲劇だったのは、
父が倒産の責任をとると遺言して自殺してしまったことでした。
妾宅で首を吊ったらしい*8です。。。
なにゆえ妾宅(苦笑)。
ま、私や母に、そういう姿を見せたくなかったんでしょうけどね。
なにも知らなかった母は、
なぜこの女の人が第一発見者なのだろうと思いつつも、
それどころでなく頭が混乱していてその意味に気がつかなかったらしいのですが、
母宛の遺言状に「外に女をつくりもしたが、本当に愛した女はお前だけだ。」
っていうようなことを父がバッチリ書いちゃってたんだそうです。
「しらないままでいたかった」って母が言ってましたが、
ホント、そういう肝心な時に間抜けなところとか、
女癖の悪そうなところとか、
私の父親だなぁ!
って思いますね。
頑固だったみたいだし、似たもの親子で、
健在だったら今までにかなり衝突していたに違いないです。
それもできなかったのは悲しく、残念ですが。
頑固と言えば。
父は私の学資保険に入っていてくれて、
その保険金のおかげで、その後も私はお金の苦労なしに、
金のかかる私立の中高一貫校や私立の大学に通うことができました。
大学では日本育英会奨学金も使ったけども、
のちに母と再婚した養父が金銭的にアテにならなかった、というより、
むしろウチの身代を食いつぶした(ようなものである)にも関わらず、
私がここまで来られたのは、本当に亡き父のおかげだと思います。
ミステリとか読んでいる人はご存じかと思いますが、
保険に入って一年以内の自殺には保険金っておりないんですよ*9
つまり、父は自殺する一年以上前から、私の将来も考えて、計画的に準備していたわけです。
そんな覚悟、私にはしようと思ってもできないだろうなぁ。
死んでしまったのは悲しいし、どんな苦労をするとしても生きていてほしかったけれど、
今まで私は父に守られてきたし、愛されているんだと思います。



お墓参りに行った時も、自分が直接的にも間接的にもいろんな人に支えられている事を感じました。
別に連絡をしたわけでもなく急にお墓参りに行ったのに、ちゃんと父の墓がきれいにしてあり香花が供えてあって、
どうしたんだろうと思ったら、父の兄(私にとっては伯父・会社の社長やってたの*10とは別の兄)がやってくれているんだと、
お寺の住職さん*11から伺いました。
父が死んだ時、母はお墓の管理などは自分がやると言ったんだけれども
「あなたはまだ若いんだから」といって伯父が引き受けてくれたんだそうです。
その伯父は、父が会社の犠牲になったと感じていて、
特にしっかりお墓を守ってくれているようだと、母は言っていました。
そういう方がいてこそ、私が今、ここに、こうしていられるんだろうなぁと思います。
ちなみに父の墓は、大内山牛乳で有名(?)な、三重県の大内山村にあります。
墓参りの前日に泊まった宿で大内山牛乳を飲みましたが、たいへん美味でした。
我が背は自宅とご両親への土産に大内山バターを買って帰りましたが、
後ほど食べたところ、これもたいへん美味だったので、お取り寄せしたですよ。



さて、父が亡くなった当時、私は3才、母は20代後半(27歳前後か?)でした*12
父について私が覚えていることは、背の高い人で、
タバコとお酒が好きで、よく肩車をしてもらったこと、
そして父の横たわるお棺にタバコやお花を入れた時の何とも言えない不思議な気持ちです。
母が泣いている理由も、
父が白い服を着て横たわり眠っているとも思えないのに動かない理由も、
祖父母や大人たちは教えてくれず、
でも聞いてはいけないことのような気がして、
言われるがままにタバコや花を供え手を合わせていたような記憶があります。
その後、母と私は静岡にある祖父母の家(母の実家)で暮らすことになり
私は静岡の幼稚園に入りました。
そこで幼稚園の先生に「お父さんはどうして亡くなったの?」ときかれ、
私は苦し紛れに「火事」と答えたらしいです。
母曰く、荼毘にふした時の記憶が残っていたんだろうということですが、
ともかく私は父がいないことや父の死因については、
その後も聞こうとしませんでした。
あ、一度だけ、小学5・6年の頃に、
何か作文か宿題をやるついでに、祖母にきいたな。
あの時の凄まじい祖母の沈黙は、たいそう恐ろしかったです。
もう2度と聞くまいと思いました。
やっと父の死因を知ったのは、私が高校に入学するころでした。
ま、それにも色々と面倒なイキサツがあるんですが、それはまた追々。



私の父と同じように、倒産やリストラ(解雇)が理由で、
バブル崩壊後には自殺者&自殺遺児が増えたようですが、
そういう方たちの話を見聞きすると、自分は本当に恵まれた環境で良かったなぁと、つくづく感じます。

*1:夫のこと。古語。今日の二つ目の記事参照。

*2:私が中学の頃に宝塚を受けるかどうか一瞬真剣に悩んだ時に母から聞いた話ですが、大阪で暮していた頃は私を宝塚に入れようかと思っていたらしいです。

*3:当時は国交正常化する前だったので、一度も中国の地を踏めなかったそうですが。

*4:読みは別のところからとってるけどね。「尾」は相棒(not配偶者)から、「実洋」は本名のモジリです

*5:私の祖父と父の意

*6:当時は総理になる前。

*7:こっちは前に汚職か何かでとっ捕まったような気がするな

*8:首を吊る前にもガス自殺とか色々と試した痕跡が残っていたそうです。

*9:どの保険も一年かは知りませんが。ともかくそういう条件があるんですね。

*10:ちなみに元社長は逃げちゃったらしい。

*11:すごく親切な方でした。隣町のホテルからお寺までどう行ったらいいかわからず、前日に電話をして問い合わせたら、なんと最寄駅までわざわざ自分で車を運転して迎えに来てくださいました。ありがたい。

*12:そう考えると、母の人生もずいぶんキツイなぁ。