沸騰空穂葛日記

マンガ・アニメ、映画、舞台などの感想を中心に(予定)。フェミニズム、教育・育児ネタなども?

正しく見える情報が正しいとは限らない

私は金八先生がキライなので、ほとんど見ないのですが、
なぜかこの回は見ていました。

金八はある死刑囚が詠んだ短歌を生徒たちに紹介する。その歌に込められた思いを説いて聞かせる金八に、生徒たちは……。

死刑囚の”かわいそうな”生い立ちを思い入れたっぷりに語る先生。
生徒たちは涙、涙……


って。
子供・生徒を「育てる」「守る」親の代理的役目だけを求めるなら、
金八は理想的な中学教師像なのかもしれないけど。
「学問・知識を教える」ことを少しでも要求するなら、
この授業はいかがなものかと思う訳ですよ。


感動の押し売りは要らん。私だったら。
とりあえず、その死刑囚の生い立ちが、本当に”かわいそう”だったかは置いておくとしても。


アカハラなんて言葉もあるように、学校という箱の中では
基本的に先生>生徒という力関係が存在していると思います。
だからこそ、先生は素のままの自分でいたらいけないんじゃないでしょうか。


先生の言葉は、生徒にとって、
授業における正解であったり、学校や教室におけるルールであったりするはずです。
だから、あそこで先生が先に感動しちゃったら、
生徒は「ここは感動するのが正しい反応なんだ」と判断するでしょう。
それじゃあ、ぜんぜん生徒自身に考える機会が与えられてないじゃんか、
それって、どーなのよ?と私は思う訳です。


たとえば社会科の教師がいたとして。先生本人が左でも右でもいいけれど、
それをそのまま「教える」のは、ある意味思想の強要であり、暴力になると思います。
先生の言葉を客観的に読み解くだけの知識を持つ生徒なんて、多くないでしょう。
そんな生徒がゴロゴロいるなら、そもそも学校なんて要らんわな(笑)。
力関係で弱い上に、反論するだけの知識を持たない相手=生徒に、
自分の感情や思想を押し付けたり刷り込んだりしちゃダメでしょうが?


生徒を大切に思う暖かな心を持っているのはモチロン、
学問上(授業中)は、冷静で論理的・客観的であるというのが、
私が考える理想の教師像です。


なんてコトを考えている時に、この本のレビューを読みました。
23分間の奇跡 (集英社文庫)
本自体は未読ですが、近いうちに読みたいと思っています。


だからね。
自分の頭で真偽・正誤・善悪を考えられないような人間を育てる
先生という絶対者が支配する授業なんてのは、
その先生がどんなに”すばらしい”人間でも、
教えるのがどんなに”すばらしい”内容でも、
クソッ食らえだと思うんですよ、私はね。


教科書問題で、ゆとり教育から学力重視に移ったらしいなんて報道がありましたが、
何よりも先に、先生たちが教えなきゃいけないのは、
自分の力で考え・学び・動き・生きることじゃないのかな。
リテラシー能力=情報をうのみにしないで自分の頭で考えて判断する力
…と言ってもいいけど、国語だのメディア教育だのに限らず、
どの教科でも根本は同じで「自発的に学び考えて理解する」んじゃなかったら、
結局、学力=学んだ知識って身につかないと思う。


そのためには、
子供の「学びたい」「知りたい」「なんだろう?」「びっくり!」な気持ちを
否定せず・見守り・支えて・伸ばしてあげる、
先生たちがすることって、それだけじゃなかろうか。
授業って本来、そういった気持ちを満たしてくれるものだったはず。
ま、それが現状の枠組みじゃ難しいから、
アッチコッチで先生方が試行錯誤してるんだろうと思いますがねー。