沸騰空穂葛日記

マンガ・アニメ、映画、舞台などの感想を中心に(予定)。フェミニズム、教育・育児ネタなども?

「吉備大臣入唐絵巻」における謎

1 謎の場面
「吉備大臣入唐絵巻」は、吉備大臣こと吉備真備遣唐使として唐に赴いた際に、吉備の才覚を怖れた唐人たちが謀った数々の無理難題を、阿倍仲麻呂の霊に助けられながら、逆に唐人たちをやり込めてゆくという、当時の日本人の、先進国・中国へのコンプレックスから生れたような物語である。大江匡房の談話を筆録した「江談抄」にある「吉備入唐間事」という説話をもととしており、詞書はその原文の漢文体をほぼ和文化したものと言ってよく、文体や筋立てがほとんど一致している。
この絵巻で最初に目に付いた場面は、吉備大臣と、阿倍仲麻呂の霊である鬼がであった後に展開される場面だった。延々と、居眠りしたり待ちくだびれて寝転がったりしている従者と、何やら書き物などをしている文官とを描いているこの場面について、梅津次郎氏も「この場面が何を意味するかは明らかでない。*1」と述べておられるように、何のためにこの場面が描かれたのか、読んでいても釈然としない。
それではなぜ、この場面は描かれたのか。その謎を解きながら、この絵巻の構成のもつ謎も解いてみたいと思う。


小松茂美氏の仮説について
小松茂美氏が作品の解説の中で「それにしても、宮門の前庭からここに至る、長い場面は、いったい、何を意味するのであろうか。詞書は、吉備と鬼とのやりとりしか記していないにもかかわらず、これほど丹念に居眠りの場面を描きこんだのは、なぜであろうか。吉備対策に、高官たちが夜を徹して謀議した様を描いたものとみるのが妥当かもしれない。が、謎は残る。*2」と書かれているように、この場面に関して詞書きの中には何も説明となるようなことは書かれていないのに、それでもこの場面が描かれたのは何故か。小松氏の推測は、確かに物語の流れから考えれば妥当な論であるように見受けられる。
だが、この場面は、詞書に何の記述もないことからもわかるように、物語の展開の上でどうしても必要な場面とはいえない。それでも絵師がこの場面を描かねばならなかったという必要性は、小松市の仮説からは感じられないように思われる。
もしも、その「夜を徹して高官が謀議した」ものの吉備には敵わなかった、という事をどうしてもここで描かねばならなかったのなら、当然、詞書にもそれに相当するような記述があるべきだろう。もちろん、一つ一つの事件の前に唐人が謀って云々という記述はあるが、この場面の次に来るのは、唐人たちが吉備を押し込めた楼にやって来て、まだ吉備が生きているのを見て驚くという展開である。吉備は死んだものと思っているはずの唐人たちが、ここで吉備を陥れる計画を練っているとは考えがたい。また、その考え方では高官たちの描写部分に比して、およそ1:3の割合で圧倒的に長い、従者たちの描写部分の意味が全く説明できない。


3 繰り返される舞台設定
ここで私は、梅津氏の「この絵巻物において、楼・宮門・宮廷の三者組み合わせの場面が前後六回も繰り返されていることは、題材的な制約からまぬかれ難い点であったろう。*3」という指摘に注目してみた。
前後六回とは、まず、吉備が閉じ込められている楼と、その事を皇帝に報告している臣下のいる宮廷。次にこの、鬼と遇っている吉備と居眠りする従者たちと宮廷の様子。そして、楼で食事を与えられる吉備と、宮廷で行われている「文選」の論議に聞き耳を立てる吉備。「文選」を持って吉備のいる楼を訪れる博士と、その時のことの報告がされている宮廷。最後に、囲碁の勝負のために吉備が連れ出された後の楼、そして囲碁の勝負の結果報告がされる宮廷。以上の6つの場面である。この絵巻で語られるストーリーのほぼ全てが、梅津氏の言われるように、この楼・宮門・宮廷の組み合わせによって語られている事がわかる。唯一その組み合わせによる舞台設定から大きく違う舞台を設定しているのは、巻頭の、吉備が唐に到着した場面と言えるだろうが、その後、吉備が楼に幽閉されて以降は、ストーリーの全てが、楼から宮門、そして宮廷へという流れの中で語られているのだ。
ではなぜ、楼→宮門→宮廷という展開が繰り返されたのか。梅津氏の言う、「題材的な制約」によって、必然的にそうなってしまったのだろうか。
私には、必然的に、舞台設定の繰り返しが描かれることになったとは考えられない。例えば、鬼の出現にしても、詞書に即して描いたならば、もっと、吉備が符を作って姿を鬼の眼から隠しながら鬼と語るシーンなどを描きこめただろう。また、唐人たちが「文選」の知識を試そうとしていると吉備に告げる鬼との会話のシーンも、詞書には有るのに省略されてしまっている。逆に、囲碁の勝負のために吉備が連れ出された後の楼については、当然流れの中で理解される絵ではあるものの、詞書には書かれていない場面である。
そのように見てみると、この絵師は、ただ詞書を忠実に絵にしていったのではなく、どの場面を描くかということについて、積極的に取捨選択しているといえるだろう。


4 時間経過と舞台展開
その絵師が、なぜ、詞書に無い場面を敢えて描いたのか。それについて、秋山光和氏の説明を見てみる。「絵巻は楼門と唐の宮殿とをほぼ同様なパターンで五回(※この回数は秋山氏の数え間違いかと思われる)繰り返すことで構成していく。同じ舞台設定を何度も回しながら、人物の仕種や小道具でドラマを展開する手法である。*4
映画でもマンガでも、また小説においてでも同じだろうが、基本的に間を隔てて同じ舞台が登場した場合、前と後では、後の方が時間が経過している。中にはそれに当てはまらないものもある。回想シーンもそうだし、構成自体の特殊性からそうはならない作品もある。映画「パルプ・フィクション*5」や、小説「ブギーポップは笑わない*6」などは、その特殊な時間軸の展開によって、作品を享受する側の意表を突いて、高い評価を得ている。しかし、それはあくまで、作品の中で展開される時間は過去から未来へと流れているという原則があってはじめて、それを裏切るという形で、効果をもたらすのである。
例えば、「ビルの立ち並ぶ整然とした街」というA図と「ビルが倒壊し荒廃したAと同じ街」というB図を、A→Bという順番で見せられたとしよう。そこにどんな文脈を読み取るか。よくあるのは「栄えていた文明社会(=A)が、驕りから自らの手で自分の文明を滅ぼした結果の荒廃(=B)。」といった展開だろう。大抵の人は、A→Bという順番で時間が経過するストーリーを作るのではないだろうか。
だが、今度は逆にB→Aという順番で見せられたとしよう。すると、そこに読み取る文脈は当然変ってくる。例えば「戦争か自然災害などで荒廃していた街(=B)が、人の力によって復興した(=A)」というようなストーリーになるはずだ。という事は、見せられた順番に沿った物語を、無意識に、当然のように私たちは想定しているのだと言える。しかも、その効果は、同じ風景を描いているというところから生まれていると考えられる。
なぜなら、「並木のある道」のC図と「ビルが整然と立ち並ぶ街」のD図を順番に見せられたとしても、そこに時間の流れを読み取ることは、AとBに比べて少ないことが予想されるからだ。
という事は、この絵巻を描いた絵師も、そのような効果を考えて、舞台の繰り返しを行ったのではないかと想定される。


5 場面転換の処理
更に、同じ手順を踏んで繰り返すというやり方は、その「楼→宮門→宮廷」という一まとまりで、一つの場面の区切りともなっている。
奥平英雄氏は、「いくつかの場面を描きついで物語の展開をはかる連続式構図では、一つの場面と次の場面との繋ぎ、あるいは区切りをいかに表現するかの問題が生ずる。その処理の仕方如何で場面転換のおもしろさがきまるといってもいい。場面転換の処理は、いわばドラマの演出の一つとみなされるからである。*7」として、場面転換の処理の例をいくつか挙げておられる。「信貴山縁起絵巻」の霞による処理はもちろん、他にも川によるもの、部屋の仕切りによる処理などをあげておられる。
だが、ここでこの「吉備大臣入唐絵巻」を見てみると、そのような場面転換の処理がなされているところが、極めて少ないように見られる。それは、場面転換の必要のない物語であったという事ではない。そのような処理を行おうと思えば、描ける場面は少なからずあっただろう。しかし、この絵師は、その方法を選択せず、敢えて、一つの場面に一つの状況をおさめた。そして、その事によって、より鮮明に「楼→宮門→宮廷」という場面転換が一つのパターンとなっている事がわかるのだ。


6 パターン化と時間の流れ
この居眠りの場面は、その「楼→宮門→宮廷」という流れをパターン化するという絵師の策略が生み出したのではないだろうか。
平氏は「絵巻物はその特殊な構成と流動的鑑賞法に支えられて、絵画の静止性、瞬間性を克服し、連続的な時間表現の成果をあげることができた。*8」と述べておられる。この「楼→宮門→宮廷」という流れのパターン化は、その「絵画の静止性、瞬間性」をむしろ強調しながら、静止画像を繰り返すことで、時間の流れを表現したとも考えられる。そのような「同じ舞台の繰り返し」によって時間経過を表現するという、ある意味、挑戦でもあるようなことを、この絵師はやろうとしていたのではないだろうか。そのパターン作りの為の、居眠りの場面の描写だと、私は考える。


7 パターン化の弱点・利点
ただ、この絵師の挑戦は、必ずしも受け入れられてはいないようだ。奥平氏はこの絵巻について、「吉備が幽閉されている楼門と、吉備をいかにして試そうかと密議をこらす唐の宮廷とが、前後六回にわたり繰り返し描かれているが、前記の「信貴山縁起」や「華厳縁起」にみるような背景の変化も人物の動きも乏しく、展開の面白味を欠いている。*9」という評価がされている。
確かに、物語自体がアクションやスピードのある展開のものではない事もあって、この絵巻にスピード感はあまり感じられない。しかし、人物の動きが乏しい、ということは、マイナス要素しかないのだろうか。
全く同じパターン化された舞台転回の中で、同じような構図、同じような状況が繰り返される。サブリミナルとまではいかないまでも、そのある種の物語の「型」のようなものは、鑑賞者にしっかり植え付けられるだろう。
また、そのパターンの中に、一個所だけ他と異なる部分があった場合、そこはより強調されて見えるのではないだろうか。この絵巻の場合、例えば最後に出てくる皇帝の姿が、それにあたるかもしれない。それまで割と泰然自若としているようにみえた皇帝が、囲碁の勝負でまで吉備に勝てなかった臣下の失態に、はじめて怒りを露わにしている。この、他の場面との違いに、当時の日本人は「してやったり」と思ったかもしれない。


8 その他パターン化の効果
この絵巻は、最初に述べたように「偉大な日本人代表が愚かな中国人をやり込めるのを笑い飛ばして劣等感をふっとばす」という性質を持っている。そのような性質から、常に淡々と表情を変えない吉備と、対照的に滑稽なまでに表情豊かな唐人という、描写の違いも出て来ているだろう。同じように、楼、つまり吉備が体現する日本の様子を描き、ちょうどその頃の、宮門・宮廷に見られる唐の方の様子が騒々しい間抜けな様である事を、必ず対比させて描くことは、その劣等感を拭うのに一役買っているともいえるだろう。


9 最後に
以上のようなことから、この絵巻を描いた絵師が、ストーリー上本来なら必要のない従者たちの居眠りの場面を描いたのは、「楼→宮門→宮廷」という流れのパターン化によって、時間の経過などを表現する事を狙っていたと考えられる。
まだまだ研究不足の点もあり、出来ればもっと映画やマンガ・アニメの演出法などとの比較についてもやってみたかったが、適当な資料が、限られた時間の中で見つけられず残念だった。



その他参考文献など



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*1:「日本絵巻物全集 粉河寺縁起絵・吉備大臣入唐絵」角川書店(解説「粉河寺縁起絵と吉備大臣入唐絵」梅津次郎)

*2:小松茂美編・著「日本絵巻大成3 吉備大臣入唐絵巻」中央公論社

*3:注1におなじ

*4:「在外 日本の至宝2 絵巻物」毎日新聞社(作品解説「1〜5吉備大臣入唐絵巻」秋山光和)

*5:パルプ・フィクションPulp Fiction)」製作1994年(米)監督・脚本クエンティン・タランティーノ 出演ブルース・ウィルス/ジョン・トラボルタ

*6:上遠野浩平メディアワークス安田均氏の評に「ミステリ、学園、食人鬼、多重人格、それらを見事なキャラクター描写と斬新なパズル構成で読ませる。」とある。)

*7:奥平英雄著「絵巻物再見」角川書店

*8:注7に同じ

*9:注7に同じ