沸騰空穂葛日記

マンガ・アニメ、映画、舞台などの感想を中心に(予定)。フェミニズム、教育・育児ネタなども?

よしながふみ『きのう何食べた?』のレビューを読んだら面白かった

よしながふみさんの作品含め、オリジナルBL*1って普段は滅多に買わないんですが、うっかり甘存さんにお願いしちゃいましたよ。

きのう何食べた?(1) (モーニング KC)

きのう何食べた?(1) (モーニング KC)

マンガ自体は未読です。明日明後日には届くかな。ということで、私が書くのはマンガの感想ではなく、マンガの感想の感想です。


さて、長い引用になりますが。

ゲイスタディーやおい*2」を読むと、なんともいえない気持ちになって、なんだか、「盗人たけだけしい」という言葉が浮かんでくるのだった。二次創作なら文脈を盗み、キャラクターを盗み、そして自分自身は陰に隠れてキャラクターを「しあわせ」にしてあげる。(中略)けれども、それでは、自分自身の「リブ」はいったいどこにいったのか。自分のリブを棚上げにして、相手を「リブしてあげる」というのは、ずいぶん傲慢なことではないのだろうか。

私がやおいを読みながら、あるいは書きながら、いつも捨てきれないのは、そうした疑問、ないしは煩悶である。
やおいは女性(もっというと、「男性」以外)のものだが、それは、最も強固なミソジニー女性嫌悪)の表出だと私は思う。
女性の居所のない、女性不在の「しあわせ」。それを読んで、女性が「しあわせ」になるということ。
そうした構図が共感と熱狂を以って循環し、半永続的に続いているほど、女性の現実は痛みに満ちている

よしながふみの「きのう何食べた?」が、私のいう「ゲイスタディーやおい」である、という主張をしたいわけではない。
むしろ、別種のものだと私は思っている。
けれども、違うものだけれども、水脈は通じている。その長い地層をくぐって、その先に湧き出してきた「表現」であると思う。どうしても「ゲイスタディーズ」に向かっていく気持ち、それを「書きたい」、つまり自分の中で「再構成したい」と思う気持ち、そういう「やおい」、そういったものの集積がなかったら、この作品は成立していないだろうと思う。作家の個人史的にも、現代漫画の状況としても。
2008-02-03(強調は引用者による)

腐女子として「ほほぅ、なるほど」と思いました。
筆者の森井さんは、よしながふみの特徴を「隠しても隠しても、にじみ出る頭の良さ。」って評してますが、こういう論考モノを読むと、森井さん自身が、すごく頭の良い人なんだろうなぁと、いつも思います。


で、当事者である のだださんにとっては、マンガに表れた、そういう「どうあがいても非当事者である視点」や、「キャラを救うことで救われたい思い」っていうのが、ひっかかりドコロになったのかなぁ?と想像してみたり。

結局さ、この作品は「ゲイライフ」を題材にしてるんです。で、その内容は「生き難さ」という側面を中心的に強調したものなんです。そういうネガティブな「ゲイライフ」を描くことで、「ゲイ」の一面的な理解をうながしている表現だったと思う。(ていうか、この作品は表象の仕方自体が単純化したものなので、どうしても一面的にしかゲイを捉えられない仕組みになっている。<「アイデンティティー」を描くってそういうことなんだよね)
ゲイが言われてウザイことを列記した漫画でした。 - のだだがBL読んだ。

お二人のレビューをあわせて読むと「ああ〜なっとく」というか、同じことを別の地点から観測したんだなぁというのが良く分かります。


私は、どっちの側にも片足を突っ込んでいるので、お二人の言っていることの両方が身にしみて解る(気がする)んですが。
うーん、私はリアルを追究されると読んでいてキツイので、
いっそ、BL*3には「あくまでも非リアル」「ファンタジー」であってほしいかなぁ。


むしろ、リアル・現実には(滅多に・簡単には)救いなんてないんだから、”中途半端にリアルにして、なんとなく救済”という展開には、怒りを覚えてしまう、かもしれない。


ニューヨーク・ニューヨーク (1) (白泉社文庫)」が「リアルだ」と高い評価を得ているのにも関わらず、私にはどうしてもリアルだと思えないのは、やっぱり「現実はそんなに上手くいかねぇんだよ」って気持ちがあるからだろうなぁ。
ニューヨーク・ニューヨークでは、どんどん脇キャラが救われない現実に飲み込まれていきながらも、主人公二人はなんとか幸せをつかんでいくんですが、その辺が、どうも。
「やっぱり、そこでハッピーエンドにする辺はファンタジーじゃねぇか、どこがリアルなんだよ」って思っちゃうんですよね。
いや、そういう厳しい現実があるからこそ”救い”が求められ、表現されてるのはわかるんだけど。


「そんなに簡単に現実では救われねぇんだよ」って思っちゃうっていうのは、つまり、のだださんの仰る『「何か」で嫌な事を吹っ切らないといけないくらい、この世の中って生きづらいんだよなぁ・・・って思うと、なんかね。ちょっと凹んだ。』っていう感想ともつながるのかもしれない。
ということは要するに『きのう何食べた?』は、そんなに簡単に救ってはくれないってこと、かな。
”救い”というより、葛藤・怒り・悩み・苦しみ・悲しみ……みたいな、あくまでも厳しい日常を、あくまでも日常として淡々と描こうとしてる、んだろうか。
そして、女性の現実の生きづらさを、他者であるゲイに背負わせちゃった/むしろ生きづらさを描くためのやおい・BLという題材ってところが、のだださんの感じた不快感なのかもしれないなあ。
「生きづらいだけ・苦しいだけじゃないってば!」って。


森井さんのレビューの中に『「大奥」でよしながふみは、「女の生も、男の生も、それぞれに辛い」ということを描いている』ってくだりがあったけれど、それは確かに凄い表現だと思うけれど、やっぱり私としては「そりゃ生きることは、姿のない敵と延々と戦い続けるようなモンで、どっちにしたって辛いさ。だからマンガの中でくらい、思いっきり戦ってわめいて叫んで、大きな敵にぶつかって、友情・努力・勝利でいいじゃねぇか。」って思うんですよね。
買うの、早まったかな(^_^;)


どうでもいい話だけど。考えてみたら、私の書くものって主体も対象も老若男女が入り混じってるかもなぁ。男男が多いのは確かだけど。つーか、あまり恋愛じゃないよなぁ、私の書く話って。なんだろう、肉体関係も含む濃い人間関係?BLを読み書きする前提からして、私は何かズレてんだろうか。む〜。


……だめだ、どんどん思考回路の性能が落ちてきているので、寝ようと思います。おやすみなさい。ぐ〜、、、。。。


寝言は寝て言え他人のふんどしで相撲をとるなよ〜

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*1:って言っていいのかわからんが

*2:引用者注:森井さんの造語だそうです。絶妙。

*3:BLに限らず(マンガ)作品全体かも